メッセージ - A年 年間 |
朗読: 第一朗読 イザ45:1, 4-6
第二朗読 1テサ1:1-5b
福音朗読 マタ22:15-21
第一朗読で、神はバビロニア捕囚に連れて行かれたユダの人々を連れ戻すために「油を注がれた人キュロス」を遣わした、と伝えています。「私は彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ・・・」。キュロスはユダの王でもなく、ユダヤ人でもありません。キュロスはペルシア帝国の王です。しかし、神はご自分の愛する僕ヤコブの子孫、ご自身が選んだ民イスラエルを救うために、他国の王を選び、その人を遣わしました。神の救いは普遍的なものだということを示しています。神様から見れば「身内」と「外部」の区別はないということです。救いはすべての人に開かれています。そして、すべての人が神様の前には救いの道具になれるということです。「私はあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった」。神の救いの業は私たちが気づかない仕方で日々働かれています。
第二朗読で、パウロはテサロニケの信徒に励ましの言葉を送っています。彼らが神から選ばれたことを思い出させ、それに伴う使命について語っています。パウロは信徒たちのことで神に感謝しています。なぜなら、彼らは「信仰によって働き」、「愛のために労苦し」、「希望を持って忍耐して」いるからです。キリスト者となったテサロニケの信徒は、その選びに満足することなく、その選びに伴う使命を常に自覚し、忠実に果たしています。パウロ自身もそうですが、テサロニケの信徒たちも神の救いの道具になっているということです。
マタイ福音書で、イエスはローマ帝国に税金を払うべきか払うべきではないかというファリサイ派の人々のチャレンジを受けました。税金を皇帝に収めるべきだと答えれば、それはローマの支配を認め、神以外のものを神とすることを宣言することと同じです。逆に、否定すれば、それはローマへの反逆行為となります。その巧妙な罠に対して、イエスは硬貨に皇帝の肖像と銘があることを確認した上で、「皇帝のものは皇帝に」と答えました。納税の問題への回答はこれで充分ですが、イエスは更に付け加えました。「神のものは神に返しなさい」。ファリサイ派の人々は、硬貨に刻まれたローマ皇帝の肖像(姿)を見ています。しかし、自分自身こそが「神の似姿」であることを忘れています。少なくともイエスを罠にかけようとした彼らの態度は神の似姿である人間のあるべき姿ではありません。イエスは「神のものは神に」と付け足すことによって、自分を陥れようとするファリサイ派の人々のチャレンジを、「心理に基づいて神の道を教える」チャンスに変えたのです。宣教のチャンスに変えたということです。
10月18日は「世界宣教の日」です。一人ひとり、また教会共同体として、私たちは神の救いに呼ばれているだけではなく、救いの道具となる使命を受けています。イエスに倣って、現代社会の様々なチャレンジを「真理に基づいて神の道を教える」チャンスに変える知恵と勇気が与えられますように。
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福音朗読の婚宴のたとえ(マタイ22:14)は天の国(神の国)を、王が王子のために催した婚宴にたとえた話です。歴史的な背景として、預言者たちやイエスによって伝えられた神のことばがユダヤ人に受け入れられず、そこから宣教が世界中に広がっていった様子を反映しているでしょうけれども、このたとえ話のどこに自分自身を置くかによって、受け取るメッセージも変わってきます。
もし自分を王の家来、特に後で大通りに出て行って人々を集めてきた家来として考えてみるとどうでしょう。家来たちは王に仕える者として、婚宴の準備ができていて、たくさんのごちそうが並んでいるのを知っています。けれども招待客が来ていないので、せっかくの婚宴が台無しになってしまう、そう残念に思っているところで王に命じられたのは、「あらかじめ招いておいた人々の代わりに、町の大通りに出て行って、見かけた者は誰でも婚宴に連れてきなさい」ということでした。
私たちはこの家来たちのように、イエスがのべ伝えたメッセージが素晴らしいものであることを知っています。それと同時に、そのすばらしさが十分に伝わっていないことも知っています。私たちは町に出て行って、見かけた人に、誰にでもその喜びを語り伝えるように、と命じられています。善人も悪人も関係ない、私たちがそれを判断するのではなくて、自分が好きか嫌いかに関わりなく、すべての人を集めてくるように、と言われています。誰かを外に放り出すかどうかを判断しているのは、王です。それは家来の仕事ではありません。私たちは、とにかくすべての人を婚宴の席へ、神の国へ招くように呼びかけられています。
たとえ話の中で、王は婚礼の礼服を着ていない人に対しても「友よ」と語りかけています。自分が気に入った人に対して愛を示すのは、それほど難しくありません。私たちはいつでもどこでも誰に対しても、「友」として誠実であろうとしているでしょうか。
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今週の福音朗読(マタイ21:33-43)は、三週連続の「ぶどう園のたとえ話」シリーズの第三回です。このたとえ話では、ぶどう園で夕方五時から働いた労働者の賃金に文句を言った朝から働いていた労働者や、父親にぶどう園へ行って働くように言われて「はい」と答えながら従わなかった弟よりもひどい登場人物が現れます。
ぶどう園を借りた農夫たちは、収穫を受け取るために遣わされた僕たちや主人の息子を殺してしまいます。歴史的に旧約の預言者たちが排斥され、イエスも十字架につけられたことを想起させますが、こうした仕打ちを私たち自身のこととして受け入れるにはあまりにも暴力的です。神に対しても、人に対しても、私たちはここまであからさまに攻撃的になることはほとんどないと思います。
しかし、私たちも働きの収穫をきちんと納めているかを自分に問うことはできるでしょう。自分自身の力だけで得たのではない、受けた恵みから生まれたものを自分のものだと主張していないか、そもそも「ふさわしい実」(21:43)を結ぶ日々を過ごしているのか。私たちの生の実りを、神に感謝しつつ、周りの人々と分かち合いたいものです。
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自分自身のあやまちを認めるのは難しいことです。自分が悪いとわかっていてもプライドが邪魔して認められない、ということもありますが、そもそも気づこうともしない、自分の「義」を疑おうともしない、そんな状態に陥ってしまうことがあります。
第一朗読(エゼキエル18:25-28)では、「主の道は正しくない」と言って自分の不義を認めない人々が糾弾されています。彼らは自分たちが不正を行っていることに気づきません。
福音朗読(マタイ21:28-32)では、イエスが語るたとえ話の内容を適切に理解していながら、自分たちの状況にはまったく気づいていない祭司長や長老たちが非難されています。すなわち、たとえ話の中で、父親にぶどう園へ行って働くように言われ、口では従順に返事しながら実行はしなかった弟の不義を指摘しながら、それが自分自身の姿であるとはわかっていません。
理屈はわかっている、正しいことを語ることはできる、しかしそれを実際に生きているかどうかは別問題です。自分自身の「正義」にとらわれない、くもりのない目と謙虚な心を持ちたいと思います。なかなか難しいことですが、私たちは、たとえあやまちを犯しても、いつでも立ち返るように呼びかけられています。エゼキエルは悪から離れれば必ず生きる、と語っており、イエスも「後で考え直す」ことが神の国につながることを示唆しています。
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福音朗読の「ぶどう園で働く人々のたとえ」(マタイ20:1-16)は、労働とそれに対する対価というこのたとえ話の要素自体に意識を奪われると、心から納得はできない、なんとなくもやもやする話です。夜明けから働いても昼から働いても夕方五時から働いても同じだけの賃金が払われてしまうのが当たり前になったなら、社会は崩壊してしまいます。
子供が良いことをしたら褒められ、悪いことをしたら叱られたり、良くも悪くも自分のしたことに応じてふさわしい報いがあると教えられるのは、この社会で生きていくために必要なことです。ただ、現実では必ずしもそうなるとは限らない、ということを私たちは知っています。真面目に生きている人が損をし、ふさわしくない人が運だけで得をすることがあるのが現実です。しかし、この福音のメッセージは、そんな「完全に公平・公正な社会はあり得ない」などという諦念ではありません。
「私は良い行いをしたからその分だけ価値がある人間である」、「正しい人間だからその正しさに応じて愛されている」、人間の尊厳をそんな小さな物差しで測る考えを根本から覆す、神の無条件の愛がここには示されています。私自身も、私の隣にいる人も、私が気にくわない人も、私が憎んでいる人も、皆そのままの有様で受け入れられている。何をしようがしまいが、神の前には等しく大切な存在である。そのことを受け入れる覚悟がありますか?そう問われているようです。