メッセージ - A年 年間 |
今日のミサの朗読には明らかに強い一体感があります。まず、イザヤによれば「神の口から出る言葉は虚しくして天に戻ることはありません」。雨のように生命を養い、実りをもたらすのです。それは、聖書にまとめられた狭い意味での神の言葉もさることながら、天地創造から地の表の上に響いている「存在せよ」という神の声もその通りです。神の語るどの言葉もその目的は命、存在、幸せです。答唱詩編にもあるように、「神が訪れるところには豊かさが溢れます」(詩編65)、あるいは、詩編147によれば「仰せを地に送ると御言葉は速やかに走る[…]主が御言葉を送ると、[凍っているもの]は溶け、息を吹きかけると、水が流れる」ということです。神の声は時として轟きのようなもの(詩編29を参照)でもありますが、厳しくても命をもたらすことに変わりありません。
すぐには気づきませんが、人間はこのような神の言葉によって存在せしめられ、養われ、生かされています。離れてしまうとしばらくは自分の力あるいは違うものによって生きることもできますが、そのうちには内的に飢え始め、最終的に衰えることになります。神の言葉には必ず効果を起こす力はあっても、人間はそれを拒み、それに背くこともできます。しかし、人間だけではなく、パウロが言っているように、人間の対抗を通して全被造物が神の言葉(生命源)から遠く離れてしまいました。他の被造物の場合には、神はその反応に関わらず、雨や太陽などで常に必要最低限の生命を保ち、守り続けるのに対して、人間からは神の言葉を受け入れる反応が求められています。雨のように神の言葉は無理やりに人間のうちに効果をもたらすことはできないのです。そこから考えますと、宇宙万物が待ち焦がれていても、人間にしか出来ない(また、人間を通して全羅万象がそれに与る)「神の子として受け入れられる」こともまた神の言葉の最終的な効果です。
最低限の命ではなくそれによって豊かな命を人間にもたらす神の言葉は、一つであっても様々な効果を引き起こすことができます。それは結局受け入れる人の受容性によります。神は私たち一人ひとりに同じ肯定的な言葉を向けながら、それぞれの人から異なる応答を待ち続けています。私たちにできるのはただ、福音書に書いてある通り、まず聞く覚悟をもち、聞く準備をして、それから世の思い煩いや富の誘惑を取り除き、聞いていることを実現しつつ理解しようとすることです。「種を奪い取る悪いもの」や「艱難と迫害」は時としてどうにも出来ないかもしれませんが、他の言葉と違って神の言葉にはそのようなことに対して人間を強めることすらできると信じ、祈りに頼るしかないのではないでしょうか。百倍の実りをもたらさなくても、せめて六十倍あるいは三十倍の実りをもたらしたいものです。
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今日の福音朗読箇所(マタイ11:25-30)の中の有名な一節、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」は、私たちにとって大きな慰めです。忙しく物事が動き、めまぐるしく変化し、矢のように時が過ぎていく現代にあって、私たちはみな疲れています。毎日朝から晩までしなければいけないことが山積みになっている、学業や仕事で良い結果を残さなければならない、気を抜き息をつく暇もない、そんな生活を送っているかもしれません。こうしたことは、私たちがこの世界で生きていく上で必要であり、責任を負っていることです。
けれども、それらが最も重要なことではない、手段であって目的ではない、もっと大切なことがある、とイエスは語ります。「わたしのもとに来れば安らぎを得られる」というのは、そのもっと大切な、新しい価値観の提示です。「柔和」で「謙遜」(11:29)なイエスの生き方は、私たちがこの世的な強さや結果や価値を求められるような中にあってもそれにしばられず、大切なものを見失わないように、と私たちを招きます。
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今日の福音朗読箇所(マタイ10:37-42)は私たちにとって突きつけられた非常に厳しい要求です。イエスよりも父や母や息子や娘を愛するなら、その人はイエスにふさわしくない、と言われています。けれどもその後の「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」という言葉に重ねるなら、より理解しやすいのではないかと思います。つまり、「自分の家族を得ようとする者はそれを失うが、イエスのために家族を失うなら、かえってそれを得る」ということです。
私たちが自分との血のつながりの内だけに固執するなら、私たちの愛する家族は限られていますが、もしイエスのゆえにつながりを血縁以上の人と持とうとするなら、私たちの「家族」はもっと大きいものになります。この箇所の後半で、イエスに従う者を受け入れるのはイエスと彼を遣わされた神を受け入れることであるとされており、イエスのゆえに人々を受け入れるなら、私たちはその人たちと神のもとに家族となることが示唆されています。
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今日の福音朗読(マタイ10:26-33)では、繰り返し「恐れる」という言葉が語られます。「人々を恐れるな」、「体は殺しても魂を殺すことができないような人々を恐れるな」、「むしろ体も魂も滅ぼすことのできる方を恐れよ」など。
しかし、恐れる・恐れないが中心的なことではありません。人を恐れず、神を恐れ、そしてすべきことは「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい」(10:27)。私たちは自分が聞いたイエスのメッセージを伝えるように招かれています。
「恐れるな」とは、私たちへの励ましです。自分がイエスの仲間である、と言い表すなら、イエスも私たちの隣に立って、自分の仲間であると言って支えて下さるでしょう。
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今年の「キリストの聖体」の祝日の福音は命のパンについてのイエスの講話(ヨハネ6章)の一部から読まれます。この講話の前に、イエスは5千人に食べ物を与えるしるしを行いました。その時に、イエスは少年が持っていた二匹の魚と五つのパンを取って、感謝の祈りを捧げて、人々に与えます。この一連の動作はミサ毎に司祭が繰り返し行っています。パンのしるしの後、イエスは湖の上を歩くもう一つのしるしを行いました。その時に、怖がっている弟子たちにイエスは「私だ。恐れることはない」とたしなめました。
二つめのしるしの後、イエスが増やしたパンを食べて満腹した人々はまたイエスの周りに集まってくるので、イエスは機会的に、当たり前のようにはパンを与えるのではなく、彼らを試すような言葉を投げかけます。「あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と。この言葉は、毎日ご聖体をいただいている私たちにとっても、試される言葉です。毎日ご聖体をいただいているのですが、その中で込められるイエスの思いにちゃんと気づいているのでしょうか、ということです。食べているパンはただのパンではないことを人々は分かっていません。イエスが与えたパンはイエス御自身;御自分の体であることを人々は理解していません。
命のパンについて話す時に、イエスは生々しい言葉を使っています。イエスが与えるパンは自分の「肉」である。「はっきり言っておく、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠の命を得る」(v. 53)。これは、決して聞き流せる言葉ではありません。この言葉を聞いた多くの弟子は「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか」。そのために、多くの弟子はイエスを離れ去ったのです。その後のことはご存じのように、「あなたたちも離れていくのか」というイエスの問いに、ペトロは「主よ、あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。私たちは誰のところへ行きましょうか」と。ご聖体の前に私たちも繰り返している言葉です。
ここでイエスが言っている「私の肉」とはギリシア語ではSarxという言葉が使われます。「肉、肉体」という意味だが、これは中立的な意味での「肉体、Soma」とは違って、軽蔑的、マイナスの意味が含まれています。「肉体、Sarx」は:弱く、病気になる、死んでいく、腐っていく、不完全な肉体、罪を犯す体を指します。イエス自身は、罪を犯したことがないです。ですから、イエスがわざわざここでSarx使うのは何を言おうとしているのでしょうか。
イエスが言いたかったのは、ご自分の「体」とは、生身の人間から構成されている教会共同体をも暗示しているということです。新約聖書の中で、「キリストの体」と言う時に、それは三つのことを指している:①イエスのこと(マリアから生まれ、十字架につけられた体)。②ご聖体のこと。③教会のことを指します。第2朗読のパウロの言葉に暗示されているように、私たち一人一人がキリストの体です。イエスが天に上げられた後も、キリストの身体は、ご聖体と教会共同体を通して今もなお生きているということです。
ですから、ご聖体をもらいに行く度に、司祭が「キリストの身体」と言って、「アーメン」と答えますが、その「アーメン」は、十字架上に付けられたイエスの身体と同時に、もう一つのキリストの体、教会共同体、つまり、お互いに対する「アーメン」でもあります。永遠の命を得るために、イエスの御体と同時に、罪や弱さを持っている生身の人間からなっている教会共同体、私たちがお互いのことをも受け入れる、認める、いただく必要があるということです。