メッセージ - A年 年間 |
今日の三つの聖書朗読では、「異邦人」という言葉がテーマになっています。
福音朗読のマタイ福音書(15:21-28)には「異邦人」という言葉自体は出てきませんが、異邦人であるティルス・シドン生まれのカナンの女がイエスのもとにやってきて、その信仰により娘の病気をいやしてもらう、というエピソードが取り上げられます。第二朗読のローマの教会への手紙(11:13-15、29-32)では、自身を「異邦人のための使徒」と呼ぶパウロが、異邦人に福音をのべ伝える自分の働きは神の計画に従うものであると語っています。第一朗読のイザヤの預言(56:1、6-7)では、イスラエルの民だけではなく、異邦人も主のもとに集い、主との契約を守るなら受け入れられる、と言われています。
異邦人が救いに与る、ということは旧約時代のイスラエル人や新約時代のユダヤ人にとって驚きであり、受け入れがたいことだったかもしれません。しかし彼らも実は神の救いに招かれている、その恵みに与ることができる、そういうメッセージが語られています。
私たち自身にとって、異邦人とは誰でしょうか。生まれだけではなく考え方も価値観も全く異なっていて、自分にとっては受け入れがたい、どうしても好きにはなれないと思っている人も、同じく大切な存在として神に愛されている、そのことを受け入れ、認めることができるでしょうか。福音朗読のカナンの女と同様に、私たちの信仰も問われています。
メッセージ - A年 年間 |
福音の中で、水の上を歩きイエスのもとに近づこうとするが、強い風に気が付いて怖くなり、沈みかけてしまう。そこでイエスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とペトロに言われる。
日常生活において、色々な悩みや恐怖に惑わされ、主の声、主の導きが分からなくなってしまうことが多い。そういった社会の中でわたし自身、何のために宣教師として生活しているのか、自分自身に問いかけることがあるが、召命や信仰生活が分からなくなった時、主は常に「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と語りかけているのではないかと、この箇所を読んで感じた。
しかしイエスを幽霊だと思い怯えた弟子たちに、イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と話しかけられた。そしてペトロが恐怖にとらわれ、沈みかけた時、主はペトロを助けられた。イエスは私たちに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と語りかけていると同時に、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と私たちのもとで語りかけているのだと感じる。私は人々との触れ合い、そして私が普段、信仰生活を送ることが出来るように助けてくださる多くの人々と、その優しさこそが主の助け、導きであると感じる。そしてイエスは生活の中でわたしたちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と話しかけているように思う。
私たちが人間である以上、恐怖を感じること、その恐怖を避けようとすることは、当然のことであるし、不必要に恐怖や混乱に身を投じることは勇気ではなく、ただの蛮勇であり、その人はただの命知らずである。しかし私たちが信仰生活を全うしようとするために、恐怖や悩み、困難に直面するとき、私たちは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言ってくださったイエスが、私たちを導いておられることを信頼しなければならないと思う。そしてその信頼の限りにおいて、私たちの社会、日常生活の中で「しるし」、「導き」が一筋の光として見えてくるのだと思う。そして主の助けによって、その導きへの一歩を踏み出す勇気を持つことが出来るよう、常に祈り続けたい。
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第1朗読は、イザヤの預言です。旧約時代の福音記者とも呼ばれるイザヤは、今回イスラエル民族を和ませる言葉だけではなく、与え主である神の姿を紹介する言葉を述べています。「渇きを覚えている人は皆、水のところに来るがよい。」と伝え始め、神ご自身がご自分の民を導き、豊かに養われるというメセージを述べているのです。さらに、人は物事を見極めることによって、真の善を選び、より良い人生を果たすことができると伝えています。
第2朗読は、使徒パウロのローマの教会への手紙です。「みなさん、だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」と語りかけ、キリストにおける生活を伝えているのです。ローマ書8章の始めの言葉によると、この生活は聖霊によるものであり、神の全能と至福、さらに神の愛に信頼を置くものです。
マタイによる福音はメシア時代を紹介し、成し遂げられた神の約束を確認します。キリストは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで祈り、パンと魚を群衆にお与えになるのです。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を与えよ。」という第1朗読のイザヤの言葉に戻るとキリストがなさったこのしるしもよりよくわかると思います。増やしたパンは人が「食べて、満腹した」という物理的出来事を証ししますが、成し遂げられたメシア時代を示すこのしるしはエウカリスチア、要するに御聖体の前表となり、神が与えてくださる救いの賜物を示しているのです。
今日の3つの朗読を考えてみると、人間を愛する神様の見事な呼ばれと業を考え、それに対する自分の応答はどのようなものかと反省し、神様への信頼を祈り求めることができると思います。
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第1朗読で、「何事でも願えば良い。あなたに与えよう」という神様の言葉にソロモンは民を導くための知恵を願いました。この願いはソロモン自身の自己理解と同時に彼の価値基準と物事の優先順位が現れています。ソロモンにとって自分のことよりもイスラエルの民のこと;権力よりも善悪を聞き分ける心;長寿や健康よりも知恵を選びました。そこにソロモンの価値基準と物事の優先順位が現れます。我々も日々様々な場面で物事を選択することを行っています。その一つ一つの決断に自分自身の自己理解と価値観や価値基準が現れています。
マタイ福音書の神の国のたとえ話の中の人も畑にある宝物や良い真珠を購入するために自分が持っている全てのものを売り払いました。つまり、その他のものを犠牲にしてもその宝物を手に入れたいということです。神の国はそのような宝物です。そこに彼の価値基準が見られます。彼にとってそれが何よりも価値あるものであり、他のものより最優先すべきものだということです。
現代世界は我々の目の前に様々な可能性を用意しています。何を選ぶのかという決断に迫られています。一つを選ぶことは、他のものを諦めるということです。そうすると正しい決断をする必要がありますが、そのためにやはり物事を「より分ける」知恵が必要です。その意味で、ソロモンは正しいものを選んだということです。
マタイ福音書の神の国のたとえの続きに、天使たちが良い魚と悪い魚を分けるように、世の終わりに正しい者と悪い者がより分けられる話があります。マタイ福音書の25章の最後の審判のたとえにも羊とヤギが分けられるように、人々も永遠の報いを受ける右の人々と永遠の罰を受ける左の人々が「より分けられる」話がありますが、神様は人々を分け隔てるということを意味するのではないと思います。イエスはすべての人が救われるように、誰一人が左側に行かないように、誰一人悪い魚のように投げ捨てられないように、そのような思いでこれらのたとえを話されたと思います。そのようなイエスの思いを答えるために日々の我々自身の正しい決断が必要です。我々自身は日々良いものと悪いものを「より分ける」ことが必要です。
第2朗読のパウロのローマの信徒への手紙の中で、「神は前もって知っておられた者たち」や「神があらかじめ定められた者たち」を義とし、「義とされたものたちに栄光をお与えになる」という言葉がありますが、これは一人一人の運命を語っているのではないと思います。むしろ、希望を与える言葉として受け止めなければなりません。
今、ここで、神様が「何事でも願えば良い。あなたに与えよう」と言われたら、自分はいったい何を願うのでしょうか。
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福音書に見られるイエスのたとえ話は基本的に「神の国」を言い表すものですが、だんだんと成長していく種は、よほどイエスの「神の国」像に合っていたのでしょう。今日の朗読箇所である「麦と毒麦のたとえ」(マタイ13:24-30)を含め、イエスはいくつもの「種」にまつわるたとえ話を語っています。
種は未来の成長と実りの可能性を感じさせるものですが、その植物の種類がわかってはいても、どれほど大きく育つのか、どれくらいの実ができるのかなどは、実際に育ってみなければわかりません。そのために人は種を蒔いた後、気をもみ、手をかけて水をやり、肥料を施し、雑草を抜き、自分にできる限りのことをして実るのを待ちます。
麦と毒麦のたとえでは、何が育つかさえわからない、麦なのか毒麦なのかはっきりしない、という状況が描かれています。良くないものが混じっているようだが、しかしそこに神の国の始まりも確かにある、そんなたとえです。それは私たちが生きているこの世界の姿です。弱さを抱え、傷つき、罪にまみれていても、しかしイエスにとってそこに絶望と諦めという選択肢はありません。毒麦が混じっていようが、それでもわけへだてなく愛を注ぎ、実りを待ちます。「神の愛と恵みはどんなところでも働く」という強い思いを感じます。私たちも同じ希望を持って生きていきます。